社会のさまざまな分野でDX(デジタルトランスフォーメーション)が進み、新たなモノやサービスが次々と登場しています。人の声や顔を感知するスマート家電や個人情報を記録するサービスなど、身近な暮らしとデジタルとの結びつきは強まる一方、デジタルの世界に情報を委ねるリスク面では不安も感じます。進化を続ける顔認証の将来像や情報化社会の安全・安心について、元ラグビー日本代表キャプテンで実業家の廣瀬俊朗さんと、大日本印刷(DNP)で認証・セキュリティーに関する企画開発に取り組む佐藤精基さんが意見を交わしました。
パスワード忘れや流出リスクを「生体認証」が軽減
――デジタル化や情報技術の進歩について、廣瀬さんはどんなメリットやデメリットを感じていますか?
廣瀬 あらゆるものが効率的になってきたことはメリットだと思います。さまざまなサービスで自分の好みに応じて「おすすめ」を提示してくれるなど、とても助かることがあります。
一方で、パスワードが多くて忘れてしまったり、再発行してもらうにもメールを送ったりするのを手間だと感じることもあります。セキュリティーの面では、気づかない間に自分の情報が誰かに見られているのではないかという不安はありますね。
佐藤 認証には、パスワードなどによる「記憶認証」、IDカードやSIMカードなどによる「所持認証」、指紋や顔を使った「生体認証」があります。
いまの認証方法の主流である記憶認証には、たくさんのパスワードを覚えきれないことや、複数のサービスで共有しているパスワードが流出すると大きなリスクに直面してしまうことなど、利用者が多くの問題を感じているかと思います。
所持認証も落として紛失したり盗まれたりするリスクがありますよね。こうした不安はできる限り減らしていかないといけません。
そのような面からも、今後さらに実用化が進む可能性が高いのが、生体認証だと思っています。
廣瀬 僕もスマホで6桁のパスワードを打つのが面倒でしたが、顔認証ができるようになってからは非常に楽になりました。荷物を持っていたり子どもと一緒にいたりして手がふさがっている時は、本当に助かります。
――そもそもDNPが認証に取り組んでいるのは、どういう経緯や理由からですか?
佐藤 実はDNPは、認証やセキュリティーに関する事業に1970年代から取り組んでいます。その当時行っていたのが磁気カードの製造やホログラムの開発です。それ以前にも株券や金券の印刷を行っていましたし、その延長でこの認証・セキュリティー分野に取り組んでいくのは自然な流れでした。
それから徐々に取り組みを深めていき、これまでにキャッシュカードや交通系カード、社員証などの製造・発行に加え、オフィスや工場の入退場ゲートの仕組みづくりなども手がけてきています。
現在は、本人確認や本人認証が必要とされるあらゆる場面で、さまざまな認証の仕組みを最適なかたちで組み合わせることに力を入れており、安全で安心なサービスを総合的に提供する「認証DX」として推進しています。
特に金融分野では、顧客と直に接しない非対面でもオンラインで本人確認ができる「eKYC総合サービス」をWebやスマホアプリで提供しています。
本人確認をオンラインで完結させるサービス(eKYC:electronic Know Your Customer)のニーズは以前からありましたが、従来は認められていませんでした。口座開設などの申請をオンラインで受け付けても、最終的には本人確認書類を郵送する必要があったのです。
2018年の犯罪収益移転防止法改正でeKYCが認められ、マイナンバーカードや運転免許証などの本人確認書類と顔の画像をネット送信することで手続きができるようになりました。
安心して顔認証を利用してもらうために
――デジタルサービスで情報を管理する「カギ」の一つである顔認証では、どれぐらいセキュリティーが担保されているのですか?
佐藤 金融分野では、金融業界の自主規制機関、金融情報システムセンター(FISC)が情報に関するセキュリティーの管理について取り決めた安全対策基準が定められており、この基準に沿ってシステムを運営・管理することが求められています。
セキュリティーを担保する方法として、一例をご紹介します。こちらのeKYC総合サービスのアプリのデモ画面を見てください。顔写真を撮影する画面には、シャッターボタンがありません。
自分の顔を画面上に表示される枠の中に入れ、まばたきをすると自動的にシャッターが切られるようになっています。画面に映った顔が写真などではなく、本当に生きている人なのかどうかをシステムが判断しています。
廣瀬 これはすごく面白いですね。安全なだけではなくて、使う人からすると操作が簡単で、悩まなくていいと思いました。
佐藤 本人確認書類として運転免許証をスマホで撮影する際も、DNP独自の技術を駆使して免許証が本物か偽造されたものかをチェックする機能を備えることも可能なんです。
DNPは全国の金融機関から、本人確認が必要な申請書類について、申請者が本人かどうかを確認する業務を長年にわたって受託している実績があります。オンラインで照合するだけではなく、人の目で丁寧に確認するサービスも手がけています。
――廣瀬さんご自身は、顔認証や指紋認証のセキュリティーに対して不安になったことはありますか?
廣瀬 指紋や顔は、唯一僕だけが持っているものだと思うので、セキュリティーに関してはあまり心配していません。むしろ紙で発行される証明書より、わかりやすくて便利かもしれませんね。
佐藤 ある調査によると、約4割の人が生体認証に関して肯定的でした。その理由として、顔認証が進むと、本人確認がスムーズになるなどの意見がありました。一方、6割近くの人が、顔の情報を悪用されるのではないかと怖さを感じているのも現状です。
そのため、セキュリティー面での安全・安心の追求と、便利な機能のアピールを両面から進めていきたいと考えています。
生活者の目線で見た場合、これから大事になってくるのは、自分の情報開示の範囲を自分で明確に選べるようになることや、開示した情報を削除したい時には、すぐに削除できるようにすることだと思います。
サービスを利用しようとする際、そのサービスの運営会社の個人情報保護方針が明記された文章が提示されても、文字が多くて難しい表現もあるので、しっかり読まないまま同意してしまっている人も多いと思います。
そこに不安に感じている人もいるでしょうから、安全性については、しっかりとわかりやすくアピールしていくようにしなければなりません。
廣瀬 世の中を変える新しいものは、人に押し付けるものではなく、便利さを伝えていくことで自然に広まっていくというのが僕の考えです。顔認証や指紋認証が登場した直後は戸惑いを感じていても、使ってみると便利でやめられないという人も多いのではないでしょうか。
いまの段階で約4割の人が肯定的なのであれば、また残り6割の人たちの間でも、安全・安心がしっかりと担保されており、使ってみたらやっぱり便利だという意識が広がるようになるなら、受け入れられていくのではないかと思います。
業界横断のプラットフォームづくりを目指す
――顔認証を使った事業やサービスは、将来的にどのように発展していくのでしょうか?
佐藤 今後、さまざまな業界のサービスに顔認証が導入されていくと予想していますが、生活者にとっては、サービスごとに顔の情報を登録するのは不便です。そこで、生体認証を活用した「業界横断型」のプラットフォームをつくろうと検討を進めています。
2021年8月に、DNPとジェーシービー(JCB)、パナソニックシステムソリューションズ ジャパン、りそなホールディングスの4社で、事業化に向けて協議をはじめました。
金融や決済だけでなく、病院、流通、不動産、レンタカーなど、日常生活のあらゆる場面で同じ顔情報を共有し、一度の登録であらゆるサービスを受けることができる環境づくりを検討しています。
廣瀬 ラグビーの試合でも、チケットに顔認証が活用されるとうれしいですね。入場の時は列ができていることが多いですから、人の流れがスムーズになるのは良いことです。さらにいまでは、あらゆるところで体温をチェックするようになりましたから、その延長で顔認証もできるかもしれないですね。
佐藤 コロナ禍の影響もあり、顔認証は一気に世の中に浸透しましたね。今後さらに用途が広がり、技術的にもどんどん進化していくと思います。
――今回のプロジェクトで4社が協業するメリットについて教えてください。
佐藤 4社それぞれに強みがあり、なりわいも違う企業なので、どうやって連携していくかについて意見を出し合うことが各社の刺激になっています。
昔は日本の企業は自社だけでビジネスを考える傾向が強かったと思いますが、いまはもうそういう時代ではありませんよね。業界横断型のプラットフォームは、4社以外にもさまざまな業界のどんな企業とも連携していくことを想定しています。そうしないと、生活者が使いにくいものになってしまうからです。
廣瀬 企業がチームを組むことによってサービスの質が上がることは、僕たち生活者にとってもありがたいことです。顔画像のデータを1つのサーバーに登録し、本人の同意の上で業界横断的に活用していける社会になるなら、日常生活のさまざまな場面で、さまざまなサービスを“手ぶら”で“スピーディ”に受けることができるようになりますね。
「認証」を意識せず、安全・安心が実現できる未来へ
――いろんなことが「顔パス」で実現できる暮らしですね。そのために必要なことはどんなことでしょうか?
廣瀬 必要なことはまず、海外の事例を知ることでしょうか。いまはこの分野で日本が一番手というわけではないと思います。すでに導入が進んでいるところでは、便利さや安心感、課題なども明確になっているはずですから、それを知ることは非常に大事だと思います。
佐藤 生体認証に対する考え方は、国や地域によって違いますね。アメリカでは顔情報の管理を禁止している州もあります。アジアでは中国が先行していますが、生体認証が全国民レベルで浸透しているのがインドです。マイナンバーカードにあたるアーダールカードは指紋や顔情報も登録されていて、生体認証だけで銀行から預金を引き出すこともできる。かなり日本よりも進んでいると思います。
――インドのアーダールについては、朝日新聞も2021年10月14日の朝刊で「インド版マイナンバー」として紹介しています。個人情報の保護をめぐって最高裁判所で争われ、政府が制度の修正を迫られるなどの問題もあったようですが、新型コロナウイルスが猛威を振るうなかで13億人以上が登録しているこの仕組みは強みを発揮し、ワクチン接種の予約や給付金の給付手続きを迅速に進める上では、とても効果的だったと報告しています。
廣瀬 海外の人は、チャレンジすることによって得られるものがあれば、まずは動いてみて、やりながら修正していくのが上手ですよね。でも日本人が持つ慎重さも、セキュリティーという面では安心材料として大切な要素だと思います。
佐藤 みなさんに安心感を与えることも「顔パス」の暮らしの実現に必要なことですね。その意味では、DNPにはICカードをはじめとするセキュリティー分野での実績があります。ICカードに関しては、OS(基本ソフト)の開発からカードの製造・発行、個人データの書き込み、発送まで行っています。このように自社内で一貫して対応できる強みは大きいと思います。
さらに、さまざまな企業と取引をしているため、特定の業界や企業に偏るのではなく、どんなパートナーともつながることができることも特長です。今回、検討を始めたプラットフォームづくりも、業界横断的にさまざまなサービスへと広げていきたいと考えています。
廣瀬 いちど顔情報を登録しておけば、さまざまなシーンで「顔パス」でサービスを受けられるようになる暮らしは、とても便利だと思います。いろんな企業や関係者が連携しあい、次の世代のためにより良いプラットフォームがつくられることを期待しています。
佐藤 顔認証のプラットフォームが完成し、いろんな業界が参画してくれるようになると、あらゆる場面で継ぎ目のない、便利で快適な暮らしを体感することができるようになります。
例えば、電車やバスに乗るのも、コンビニでの買いものも、ホテルのチェックインも、手ぶらでOKになります。スポーツジムではロッカーの鍵も必要ありません。
これ以外にも、便利なアイデアはたくさん出てくると思います。生活者の情報の「安全・安心」を担保し、シームレスにつなぐことで誰もが心地よく暮らせる環境を「未来のあたりまえ」にしていきたいと考えています。
(聞き手:bizble編集長 高橋克典)
【プロフィール】
廣瀬 俊朗(ひろせ・としあき)
1981年、大阪府生まれ。5歳からラグビーを始め、北野高校、慶応義塾大学を経て、2004年に東芝に入社。2007年に初の日本代表入りを果たし、12年には「エディーJAPAN」の初代キャプテンに。15年のW杯で3勝を挙げたチームの躍進に貢献した。現在は株式会社HiRAKUの代表取締役として、元アスリートならではの視点を生かした活動を行っている。
佐藤 精基(さとう・きよもと)
大日本印刷株式会社 情報イノベーション事業部 PFサービスセンター デジタルトラストプラットフォーム本部 本部長。1995年入社。ビジネスフォームのシステム開発部やWEBサイト構築企画開発を経て、現職。金融機関向けのスマートフォンなどの開発などを担当した。2019年から現職。
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