大迫傑と並ぶ早稲田の「スーパールーキー」志方文典。元箱根ランナーはなぜ会社を辞め、農家になったのか

大迫傑と並ぶ早稲田の「スーパールーキー」志方文典。元箱根ランナーはなぜ会社を辞め、農家になったのか

キャリア

高校時代から全国区で活躍し、早稲田大学では、東京オリンピック男子マラソン6位の大迫傑さんと並んで「スーパールーキー」と呼ばれた元陸上長距離選手の志方文典さん(30)。24歳で引退した後、妻とともに長野に移住し、農家になりました。決断に至った思いや、今後のキャリアについて聞きました。

変化の大きな時代に生きる私たちの働き方はより柔軟になりつつあります。あなたは、どう働く? そのヒントとなりうる、新たな分野に“転身”して活躍する方々のいまを伝える企画です。

結婚が転機。農業なら仕事の時も家族一緒にいられる

――高校、大学ではエリートランナーとして活躍されました。現役引退後に農家に転身した経緯を教えて下さい。

大学時代から怪我(けが)に苦しみ、実業団の旭化成に所属していた社会人2年目の時、現役を引退しました。

その後、旭化成で社業に専念していましたが、2017年に結婚し、転機を迎えました。

今後どうやって生きていくか、家族としてのあるべき姿について妻と話し合いをした結果、会社を辞めることにしました。

 

会社員をしていると、どうしても家族の時間が少なくなってしまいます。

寝る時間を除くと平日は1日2〜3時間くらいしか家にいられず、それは家族の形としてどうなのか、と疑問に思いました。

 

2人で考えていくうちに、家族経営の農業なら、仕事の時間も一緒にいられるからいいのでは、という話になりました。

妻の実家が長野県の野辺山高原で農家をやっていたんです。

2019年3月に旭化成を退職し、翌4月に野辺山に移住、農業を始めました。

トウモロコシの収穫をする志方さん=注記のあるものを除き本人提供
トウモロコシの収穫をする志方さん=注記のあるものを除き本人提供

――新たな地で、未経験の農業を始めるというのは大きな決断だと思います。迷いはありませんでしたか?

一番のネックは金銭的に不安定になることでした。

ただ、僕も妻もそんなにお金を使うタイプではないので、そこは大丈夫かなと楽観視していましたね(笑)

義理の両親が「まだ若いから、もし農家がダメでも他のことで生きていける。そこまでプレッシャーを感じず始めてみては」と言ってくれたのも大きかったです。

 

――具体的にはどんな形で農業をされていますか?

僕と妻、妻の姉と両親の5人でやっています。

育てているのはトウモロコシやダイコン、ホウレンソウなど。

野辺山は標高1300メートル以上の地域で(涼しい気候を生かした高原野菜の栽培が盛んなため)夏は忙しいのですが、冬はほとんど畑に行きません。

土づくりが始まる春先は午前8時から午後4時くらいまで、収穫が始まると午前5時から午後5時くらいまで畑で作業します。

冬はオフシーズンなので、メリハリのある働き方ができています。

大学1年でチームの主力に。でも箱根駅伝直前に怪我

――農家に転身する前は長距離選手でした。陸上競技を始めたきっかけを教えて下さい。

小学校高学年の頃、校内のマラソン大会で2位になりました。

1位だった友達と一緒に「全国大会を目指そう」と中学の陸上部に入部。

練習すればするだけ、どんどん記録が伸びていくのが楽しくて、夢中で走っていました。

 

高校は強豪の兵庫県立西脇工業に入学し、1年時には5000メートルでインターハイ(全国高校総体)8位入賞。

3年時には同じく5000メートルで、日本ジュニア選手権で優勝できました。

高校までは大きい怪我もほとんどなく、実績もタイムも順調に伸びていきました。

 

――高校卒業後、早稲田大学に入学しました。なぜ早稲田大学を選んだのでしょうか?

地元・兵庫から早稲田大学に進んだ竹澤健介さん(現・大阪経済大ヘッドコーチ)の影響が大きいですね。

中学3年の時、兵庫県代表として全国都道府県対抗駅伝に出て、竹澤さんとたすきリレーをさせていただきました。

その頃から竹澤さんに憧れていて。

5つ上なので在学中にかぶることはないのですが、同じ大学に行きたいと思い、早稲田を選びました。

竹澤さんは大学在学中に(5000メートルと1万メートルで)北京オリンピックに出場されました。

私も同じように、大学時代から日本のトップレベルで走れる選手になりたいと思っていました。

2007年8月、世界陸上の男子1万メートル決勝で走る竹澤健介さん。翌2008年の北京オリンピックでは、5000メートルと1万メートルに長距離種目で学生として44年ぶりに出場した=大阪市、朝日新聞社
2007年8月、世界陸上の男子1万メートル決勝で走る竹澤健介さん。翌2008年の北京オリンピックでは、5000メートルと1万メートルに長距離種目で学生として44年ぶりに出場した=大阪市、朝日新聞社

――早稲田大学では、2021年の東京オリンピックの男子マラソンで6位入賞した大迫傑さんと同学年でした。大迫さんをライバルとして意識していましたか?

僕は「一緒に強くなろう」という感覚だったんですけど、彼の方が意識していた印象ですね。

彼は「誰にも負けたくない」という思いがとても強く、ライバルの1人に僕も入っていたのだと思います。

大学1年で出た世界ジュニア選手権の10000mでは、大迫が8位で、僕が9位でした。

日本代表として世界の舞台で戦えたので、これは自分の陸上人生で一番の実績です。

第42回全日本大学駅伝の5区で、スパートをかける早大・志方選手。右は東洋大・設楽悠太選手(いずれも当時)=2010年11月、津市、朝日新聞社
第42回全日本大学駅伝の5区で、スパートをかける早大・志方選手。右は東洋大・設楽悠太選手(いずれも当時)=2010年11月、津市、朝日新聞社

――1年生からチームの主力として活躍しましたが、その年の箱根駅伝には怪我で出場できませんでした。どんな怪我だったのでしょうか?

1年生の秋までは順調に走れていたのですが、12月に右足の(甲にある)第3中足骨を骨折してしまいました。

怪我が判明したのは、箱根駅伝のちょうど1ヶ月前です。

練習中に突然、足が痛み、まともに歩けない状態になりました。

病院でレントゲンを撮ると、骨に完全に線が入っていたんです。

箱根駅伝に向けて練習量が増えていく中、疲労が蓄積し、怪我につながってしまいました。

 

――怪我が分かった時はどんな心境でしたか?

箱根駅伝は4年間走るものだと思って入学しました。

しかも当時、早稲田大学は出雲駅伝と全日本大学駅伝で優勝していて、箱根駅伝に大学駅伝3冠がかかっていました。

初めての大きな怪我を大事な場面でしてしまい、やってしまった、どうしよう、とパニック状態でしたね。

 

ただ、チームは箱根駅伝で優勝し、3冠を達成しました。

良いムードでしたが、僕は正直全然うれしくなかったです。

自分が出られなかったことに対して、ただただ落ち込んでいましたね。

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