漫画家のあんじゅ先生こと若林杏樹さん(33)は大学卒業後、母校の大学に5年間勤めました。その後、漫画家を目指して独立し、4年目に出した共著が20万部を突破する大ヒットとなりました。独立を決めた時の思いや、新たなキャリアを切り開くヒントを聞きました。
変化の大きな時代に生きる私たちの働き方はより柔軟になりつつあります。あなたは、どう働く? そのヒントとなりうる、新たな分野に“転身”して活躍する方々のいまを伝える企画です。
目次
人に見せずコソコソと、でも描き続けた
――2015年に退職され、漫画家への道を歩み始めました。漫画家になりたいと思ったきっかけは何だったのですか?
小さい頃から絵を描いたり漫画を読んだりするのが好きでした。
母いわく、幼稚園では友達が誰もいなくて、ひたすら一人で絵を描いていたそうです(笑)
実際、絵を描いていたことと、飼育小屋でニワトリやリスに餌をあげていたことくらいしか、幼稚園の思い出がありません。
明確に漫画家になりたいと思ったのは、小学校5、6年生の頃です。
それまでは「Dr.スランプ」や「ドラゴンボール」のような少年漫画を読んでいたのですが、高学年になって初めて少女漫画を読んだんです。
繊細な漫画に触れて「こんな素敵な表現もあるんだ」とびっくりしましたね。
それで、私も読者が喜ぶ作品を作りたいと思うようになりました。
小学校の卒業文集で「私は漫画家になる!」と宣言しました。
――漫画を描くようになったのは、小学校高学年くらいからですか?
小学生の時、自由帳に漫画を描いていたら、クラスの男子にめちゃくちゃバカにされたんです。
親に「(漫画を描くより)勉強しなさい」と言われたこともあって、それからはコソコソと描くようになりました。
今の10代って、オタクが認められている世代だと思うんですけど、今の30〜40代が10代だった頃は、ガンダムと言っただけで石を投げられるような時代だったんですよ(笑)
なので、中学、高校では描いた漫画を誰にも見せませんでした。
でも好きだったので、描くことはやめませんでしたね。
――堂々と漫画を描けるようになったのはいつからですか?
大学生になってからです。
ちょうど、しょこたん(タレントの中川翔子さん)が出始めて、オタクも人権を得られたのがその頃だったんです。
大学では漫画研究会に入って、人に漫画を見せるようになりました。
「悪役伝説ハカイマー」という、しょうもない4コマギャグ漫画を描いてましたね(笑)
あとは大学のフリーペーパーで「就活の夜明け」という、就活がうまくいかない、全然夜が明けない話を描いてました(笑)
――イラストはどうやって学んだのですか?
ほぼ独学です。
唯一やったのは小学生の時、誕生日に買ってもらった漫画キット(笑)
お願いしたら買ってくれて、すごくうれしかった思い出があります。
その中の冊子に「子どもは目を(顔の)下の方に描く、大人は目を上の方に描くといい」みたいな人間の体の描き方が書いてあったので、参考にしていました。
大学職員を5年で退職。事後報告に母はカンカン
――大学卒業後、母校の大学職員になりました。なぜ大学職員に?
高校の時に「専門学校に行きたい」と言ったら、母から「いいから普通の大学に行って」と言われました。
大学に進学したら「いいから普通のところに就職して」と言われて。
やりたいことをやった方がいいんじゃないかという思いはあったんですが、母の意見を覆すほどの気合いはありませんでした。
それで、普通のところに就職するために、普通の就職活動をしました。
でも面接には漫画を描いた原稿用紙を持っていきました。
学生時代にやっていたことって漫画しかない、と思ったので。
自己紹介で漫画を持って「こんな漫画が好きなんです」と言ったら、面接官に「じゃあ漫画家になればいいんじゃないの?」と言われて。
確かに、と思いました(笑)
漫画以外に何にも興味がなく、「就職先どうしよう」と考えていた時、「大学は楽しかった」と気づいたんです。
今までコソコソ描いていた漫画を「面白い!」と言ってくれる先輩がいたり、フリーペーパーでたくさんの人に読んでもらえたりして。
大学職員の倍率は高かったんですけど、漫画の原稿用紙を持っていって「人に喜んでもらうことが好きなんです」と言ったら、なんとか採用されました。
――漫画家への未練はなかったのですか?
ありましたけど、「まあいいか」という感じでしたね。
採用されて、両親が本当に喜んでいたのが印象的でした。
大学から内定をもらったのが4年生の11月頃と遅かったので、安心したんだと思います。
親も周りも喜んでいたので、「これはこれでよかったのかな」と自分の中では納得していました。
――大学職員として、どんな仕事を経験しましたか?
入試課で入試広報の仕事をしていました。
最初の3年間は外回り。
高校生に受験してもらうために、大学の説明をして回るみたいな。
私は主に神奈川県担当だったので、神奈川の高校は全部行きましたね。
――大学職員の業務で、工夫したことはありましたか?
偏差値が高い高校と低い高校では、引っかかるポイントが違うので、相手に応じて話の仕方を変えていました。
偏差値が高い高校の生徒たちには、話をダイナミックにしていました。
というのも、大学のキャンパスが八王子だったので、神奈川から八王子まで来てもらう必要があるんですね。
そこで「みんな、家から近い大学を選んでない? 世界の高校生がどうやって大学選びしているか知ってる? 世界地図を広げて、どの国のどのキャンパスで、どんなことを学びたいのか考えているんだよ。それに比べて、私たちの大学選びってちっぽけだと思わない?」って言っていましたね(笑)
で、最終的には強引に「世界地図を広げるより八王子の方が近いし、いい大学だよ」みたいな(笑)
一方で、偏差値があまり高くない高校には「学部を選びたくない」「分からない」という子たちも多いんですよね。
なので「総合大学だから、オープンキャンパスでいろんな学部のいろんな授業を受けられるよ。いろんな学部の先輩の話を聞いたら、何となくやりたいことが分かるかも。だからオープンキャンパス来て」みたいな(笑)
――大学職員を5年で退職されました。決断の理由を教えて下さい。
仕事はとても楽しくて、大学職員って天職だなと思っていました。
でも4年目から内勤になって、状況が変わったんです。
先輩を見ていて、みんなずっと同じ仕事をしているなと気づきました。
私もこのままずっと同じことをやり続けるのかと思うと、なんか違うなと。
それで、5年で辞めようと決めました。
――ご両親の反応はどうでしたか?
辞めてから事後報告したんです。
そうしたら、もうすごいですよ。
母は「なんで辞めたの!」とカンカンでした。
退職して1、2年目くらいまでは「先輩にお願いして、大学に戻れないか聞いてきなさい」とよく言われてましたね(笑)