プロ野球パ・リーグの西武ライオンズで広報を務めている服部友一さん(33)は、元民放テレビ局のアナウンサー。新卒で入った鹿児島読売テレビで自身の番組を持つなど、約5年間務めていました。なぜ、「夢だった」というアナウンサーから“広報”に転身したのか? 決断にいたった思いや、新たなキャリアを切り開くヒントを聞きました。
変化の大きな時代に生きる私たちの働き方はより柔軟になりつつあります。あなたは、どう働く? そのヒントとなりうる、新たな分野に“転身”して活躍する方々のいまを伝える企画です。
目次
100社近くエントリーして不採用。ようやくつかんだアナウンサーの仕事を手放した理由
――鹿児島読売テレビのアナウンサーを辞め、西武ライオンズの広報になりました。なぜ広報に、そしてなぜライオンズだったのでしょうか?
まず、アナウンサーを辞めたのは2016年6月でした。入社したのは2011年4月だったので、5年3ヶ月ほど働いていました。
すぐに西武ライオンズに転職したわけではなくて、鹿児島読売テレビを辞めた後は、オリエンタルランドのグループ会社に転職して、広報をやっていました。その後、PR代理店を経て、2019年10月に西武ライオンズに入社しました。
アナウンサーを辞めてからは、一貫して“広報”の仕事をしています。
西武ライオンズに入社したのは、もちろん野球が好きだったからですし、出身は千葉県ですが、学生時代から所沢に試合を見に来ていました。強いチームというイメージがあり、歴史のある球団だったので、そんな球団で広報の仕事をやってみたいと思い、転職を決めました。
私自身は高校時代はテニス部で、野球をやったことはないんですけど(笑)、高校野球に打ち込む友達ができたことがきっかけで、どんどん野球にハマっていきました。
――もともと、アナウンサー志望だったのですか?
小学生の頃から、「テレビ局で番組をつくりたい」という思いがありました。
アナウンサーを意識するようになったのは、高校生のころでした。地元・千葉のテレビ局で夏の高校野球を応援する番組をやっていたのですが、その番組に“球児を応援する同級生”として出演する機会がありました。隣で進行してくれるアナウンサーの仕事ぶりを見て、「かっこいいな」と思うようになりました。
大学に入学してから、マスコミ業界をめざす学生たちでつくる自主ゼミに入りました。アナウンサーをめざす優秀な学生たちと出会い、徐々にアナウンサーになりたいと強く思うようになりました。
アナウンサーになることが「夢」になっていましたね。
――アナウンサーといえば、採用人数も少なく、“狭き門”です
そうだと思います。就職活動をしていた当時、私はなかなか内定が決まらなかったんです。
テレビ局を中心にマスコミ業界を受けていましたが、ほとんど書類選考で落とされ、全然ダメでした。
全部で100社近く受けていたと思います。ちょうどリーマンショック後で求人が少なかったのもありますが、尋常じゃないくらいエントリーシートを書いていました。でも、全然内定をもらえなくて。
本当に最後の最後に、鹿児島読売テレビの内定が決まったときは、もう絶頂でしたね(笑)。
――そんな苦労してつかんだアナウンサーという仕事を離れる決断をしたのはどうしてだったのでしょうか
アナウンサーの仕事は本当に楽しくて、すごく充実していました。夢だった仕事ですし、無我夢中で働いていました。
ちょうど入社して5年が経ったくらいから、自分のキャリアを考え始めました。
私の仕事は、取材をさせてもらって、その取材対象の方々の思いを第三者の立場で伝えること。ですが、アナウンサーとして“中堅”になるにつれ、「自分も発信者になりたい」と思うようになったんです。
アナウンサーも発信者ではあると思うんですけど、取材を通じて、さまざまな分野の広報担当の方との出会いがありました。その広報の方々から、自分の扱っている商品やコンテンツへの熱を感じたんです。
自分の大好きなものや世に出したいものを、主体的に世の中に発信できる仕事ってすごく魅力的だな。日によって扱うものが変わるのではなく、継続して自分の好きなものを発信する仕事は自分に合っていそうだな――。そんなふうに感じ、「もし、次の仕事をするなら“広報”だな」と思うようになりました。
「自分のキャリア、それでいいの?」。“5年先”を想像してワクワクした方へ
――アナウンサーの仕事を離れるさみしさはなかったんですか
ものすごく感じましたよ。コミュニケーションが密な職場で、先輩や上司に本当に助けてもらいました。
1年ちょっとで卒業してしまったのですが、4年目で初めて自分の番組をもたせてもらいました。それまで鹿児島読売テレビには夕方の情報番組がなくて、「初めて立ち上げるぞ」というときに司会者として番組をもたせてもらったんです。
いまでも覚えていますが、6月23日が最終出社日で、その日が最後の放送だったんです。番組の最後に、退職することを説明するために1分時間をもらったんですが、その1分間ずっと泣いていました。
振り返ると、もちろんさみしかったですし、次への不安もあったんだろうなとは思います。
――引き留められたと思いますが、決断の背中を押したものは何だったのでしょうか
背中を押したのは、自分自身だと思います。
辞めることは誰にも言いませんでした。親にも、就活で苦労をともにした友達にも。
言ったら、「辞めない方がいいよ」「夢だったんでしょ」と反対されると思ったんです。だから誰にも言いませんでした。
アナウンサーとしての5年間で、自分の番組を持たせてもらっただけでなく、自分で取材して原稿を書いて、撮影・編集もして......と、色んな仕事をさせてもらいました。
おこがましいですが、「やりきった」「夢はかなった」という気持ちもあったのかもしれません。
また、アナウンサーとして5年が経った時、自分の5年先である「10年目」のイメージがわかなかったんです。会社に提出する「キャリアシート」でも、「5年後、10年後のあなた」というような項目を、全然埋められなかったんです。それに違和感を覚えました。
きっと10年目も同じような仕事をしているんだろうな、とも思いました。「自分のキャリア、それでいいの?」と考えたときに、「5年先の仕事が想像できないのであれば、別の仕事をしてみよう」と思ったのが一番大きかったかもしれません。ふとした“違和感”をそのままにしないことも大切だなと思います。
広報って、どんな業種の会社にもありますよね。広報の仕事をやっていけば、いろんな仕事ができると思ったんです。
「広報を続けていった5年後にどんな仕事をしているんだろう?」と思ったときのワクワク感が、アナウンサーを続けたときの5年先を想像したときよりも、大きかったんです。
時代の流れも速くなっていて、新しいサービスがどんどんうまれている。時代の変化をとらえた仕事をしたいと思ったんです。
トレンドや時流を追いかけるよりも、その動きを起こす側になりたい、と思いました。
アナウンサー→広報。立場が変わって気づいた「伝え方」の違い
――アナウンサーとしての経験やスキルは、広報としてのお仕事にどう生きていますか
ものすごく生きていると思います。
特に、テレビや新聞などのメディアが求めてるものを逆算できるのは強みだと思います。
「どんな映像が欲しいのか」といったことももちろんですが、メディアが報じる“意義”も理解した上で取材を提案することもできますし、ニュースとして価値があるかどうかをフラットにメディアの方々と話せると思います。
自分の会社や商品をPRするだけの広報にはなりたくないと思っています。それにどういうニュース性があるのか、社会にどういう影響を与えるのかも俯瞰(ふかん)して見つつ、発信できる広報でありたいと思っています。
――立場が変わり、情報の伝え方で変わったなと思う点や、難しさを感じた点などはありますか
テレビ局にいたときは、情報を届ける相手は「不特定多数」。なので、大切なことは「誰もがわかるように伝えること」「普遍的に伝えること」でした。
そうすると、原稿って1種類しかないんです。
でも、広報って伝えたい先の相手をもう少し分類できます。
たとえば、同じ情報でも、30代女性に伝えたいなとか、50代男性に届けたいなと思ったときに、届けたい相手によって伝え方を変えることができるのが、広報とアナウンサー時代の違いかなと思います。
テレビ局にいたときは、「誰もがわかるように」ということをとにかく意識していました。
でも、いまは逆なんです。
「誰々にわかってもらいたい!」と思って、「この商品を届けたい先ってどういう人なんだっけ?」「じゃあその人が読んでいる雑誌やメディアって何だろう?」「その人が興味のあるものってなんだっけ?」ということを考えて、情報発信をするようにしています。
伝え方はひとつだけではなくて、何通りもあります。なので、その分難しさもありますね。
――いまはSNSでファンや消費者が企業と直接つながることができる時代です。そんな時代のメディアの役割はどんなものなのでしょうか
メディアにはメディアの強みがすごくあると思います。
情報を取得する手段がものすごくたくさんある世の中ですが、テレビや新聞にあるのは「信頼性」だと思っています。
さらに、テレビは最近「見られていない」など軽視されがちですが、ひとつのテレビ番組でさまざまな情報を同時多発的に届けることができる。
SNSやネットニュースだと、興味あるものや好きなものだけ見ることができます。僕らが野球に興味のない人に向けて、インターネットを通じて情報を届けるのって難しいなと思ってしまいます。
不特定多数の人に訴えることができるという意味では、メディアに強みがあると思います。
仕事の「ストレス」も無駄じゃない。「向いてない」を見つけるヒントに
――西武ライオンズの広報として、忘れられない仕事はありますか
本拠地であるメットライフドームを、180億円をかけて大改修したんです。
西武グループとしても180億円は大きな投資だったんですが、その広報のメイン担当を務めました。
改修が全部終わって完成したのは、今年3月。新型コロナに直面していました。
メディアの方々を招いて施設を見てもらう内覧会を企画していたのですが、緊急事態宣言下だったこともあり、開催するかどうか悩みました。
「自分たちがやってきたことをどうやって世の中に知ってもらうか」を考え抜いて、最終的には、感染対策を万全に講じた上で実施しました。
メディアの方もたくさん来てくれて、きれいに改修されたメットライフドームについて世の中に発信してもらうことができました。
その後、ファンの方々から、「いまは球場に行けないし、行きにくいけれど、メディアを通して自分たちが好きなライオンズの球場がこんなふうに生まれ変わったということを知ることができてよかった」というコメントを頂いたんです。
もちろん、ファンの方々に向けて、我々自身が球場を撮影して配信するサービスもやりました。
ライオンズのファンクラブには11万人くらい会員がいますし、Twitterも40万人以上フォロワーがいます。
ライオンズを好きな人に情報を届ける手段は持っているんですけど、それはもちろんなのですが、「球場から足が遠のいてしまった」など、少し離れてしまった方々に情報を届けるには、やっぱりメディアを通じて伝えることが大事だと感じました。
――同じようにいまの仕事とは違う仕事に挑戦してみたい、好きなことを形にしてみたいと考えている同世代に向けてメッセージを頂きたいです
アナウンサーの仕事は、僕にとって「夢」でした。充実もしていましたし、“世の中に情報を伝える楽しさ”を教えてくれた仕事だと思います。
広報の仕事は、僕にとっては「天職」だと思っています。
アナウンサーとして“人に伝える楽しさ”を知ってから、間接的ではなくて、自分の好きな商品やコンテンツをダイレクトに世の中に届けることをしたいと思うようになったので、自分のなかではつながっています。
自分がいまのキャリアを見つけたのは、最初の仕事がきっかけだったんです。アナウンサーの仕事をやっていくなかで、次のキャリアへのヒントがあったんですよね。
それって仕事にかぎらず、自分のキャリアのヒントは、何かしら自分のまわりにあると思います。
自分の「好きなもの」もそうですが、「自分にストレスのかからないもの」を選ぶのもいいと思います。
広報の仕事ができるようになった頃、PR代理店に転職しました。
テレビ局ではいろんな取材を同時並行的にやることもありましたし、様々な案件を並行してこなすPR代理店での仕事は、自分に合っているだろうなと思っていました。
ところが、様々な案件をこなしながら、時間に追われてしまって、自分が100%納得できる仕事をすることができなくて。それにすごくストレスを感じていました。
その「ストレス」を見つけられたのは大きかったと思っています。「向いていない」ということに気づくことができたからです。自分は、ひとつのものに根を張って、じっくり向き合って伝える仕事の方が向いているんだと気づくことができました。
ストレスは「無駄」じゃないんですが、「我慢」することでもないと思います。
いまの仕事で、もしストレスを感じてしまっているのであれば、別の道を考えてみてもいいのではないでしょうか。
服部友一さんの人生の満足度は......?
就活していたときはメンタルが本当にどん底でした(笑)。内定をもらう直前は30%くらいだったと思います。
鹿児島読売テレビに内定を頂いたときはもう、100%でしたね。
入社から5年が経ち、キャリアを考え始めたときも、そんなに満足度は落ちてはいないです。仕事にも満足していましたし、今後のキャリアについてはポジティブに考えていたので、90%くらいです。
PR代理店でストレスを感じていたときは、50%くらいですね。自分が納得できる仕事ができなかったことは本当に僕にとってはしんどいことだったので。
――現在は?
もちろんいまは楽しいですし、でも「まだまだ」と思うところもあるので、80%くらいかなと思っています。
これから、結果を出し続けて、“広報のプロフェッショナル”になるのが夢なんです。
「西武ライオンズ」というと、もちろん「プロ野球」「スポーツ」というイメージが強いと思いますが、スポーツというフィルターを通したら、いろんなジャンルの仕事ができるんです。
スポーツ×IT、エンタメ、SDGs......「スポーツ×○○」の事業がすごく多いんです。
さまざまなキャリアをこれから積んで、野球だけじゃない、プロフェッショナルになりたいと思っています。