自分たちの力で村の暮らしを豊かに 元外交官・原ゆかりがアフリカで貫き通した「一本道」

自分たちの力で村の暮らしを豊かに 元外交官・原ゆかりがアフリカで貫き通した「一本道」

キャリア

インターン中に出会ったアフリカの村と人びとへの深い愛着のあまり、その出会いが人生を変えるきっかけになりました。ガーナに設立したNGOの共同代表を務めながら、アフリカと日本との架け橋となる会社を設立してCEOになった原ゆかりさん(34)。苦労してつかんだ外交官としての歩みを止め、転職先の大手総合商社も退職して起業し、自分の力で道を切り開こうと決断ができたのはなぜなのか。これまで挑戦してきたことや職業観について聞きました。

変化の大きな時代に生きる私たちの働き方はより柔軟になりつつあります。あなたは、どう働く? そのヒントとなりうる、新たな分野に“転身”して活躍する方々のいまを伝える企画です。

原点は妹と見たフィリピンのゴミの山の少女

百貨店の特設会場でアフリカ発の商品をアピールする原ゆかりさん=東京都新宿区
百貨店の特設会場でアフリカ発の商品をアピールする原ゆかりさん=東京都新宿区

――まずはじめに、いま手がけていることを教えてください。

西アフリカのガーナにある人口2000人ほどのボナイリ村という集落に拠点を置くNGO「MY DREAM.org(マイドリーム)」の共同代表を務めています。外務省在職中の2012年に設立したので来年で10年になります。学校やクリニックなど村の暮らしに役立つ施設を整備し、現金収入を得るための布製品づくりなど村発のビジネスをサポートすることに取り組んでいます。

スカイヤーが扱うアフリカ発の商品を販売する百貨店の特設会場=東京都新宿区
スカイヤーが扱うアフリカ発の商品を販売する百貨店の特設会場=東京都新宿区

もう一つはSKYAH(スカイヤー)という会社を起業し、CEOを務めています。「Proudly from Africa(プラウドリー・フロム・アフリカ)」というプラットフォームをつくり、品質の良いアフリカ発のこだわり製品を輸入・販売したり、日本企業のアフリカ事業をサポートするコンサルティングを手がけたりするのが仕事です。「プラウドリー・フロム・アフリカ」では、ガーナだけではなく、南アフリカやエスワティニ、ナイジェリアなど6カ国の17ブランドを手がけています。近く、ルワンダのブランドも加わります。

スカイヤーが輸入しているガーナのシアバターと創業者のガーナ人起業家の女性=原さん提供
スカイヤーが輸入しているガーナのシアバターと創業者のガーナ人起業家の女性=原さん提供

――原さんが海外とかかわりたいと考えた原体験を教えてください。

まだ中学生のときのことです。NHKのドキュメンタリー番組で、フィリピンのゴミの山の中で暮らす少女の姿が映し出されているのを見ました。「かわいそうだな」で終わりがちですが、そのときは8歳年下の妹も一緒に見ていました。テレビ画面の少女と妹が同じ年恰好だと思うと、急にフィリピンの少女のことが自分事に思えて、あんな幼い子が自分の食いぶちを自分で考えなくてはいけない現実はイヤだなと思いました。妹にそんな思いをさせない世の中づくりにかかわれる大人になりたいと、子どもながらに感じました。

グローバルな課題にかかわれる仕事を手がけるために、まず英語をしっかり勉強しようと考えました。愛媛県今治市の地元では、両親が中3の時から英会話スクールに通わせてくれました。

個人塾でしたが、TOEFLを意識し、中学生からTIME誌を英語で読みました。わからなくても読む努力をして、記事について考えを述べたりディベートをしたり。限られた語彙を駆使し、考えを言葉にする訓練を重ねました。与えられたテーマについて自分の意見を持ち、ものごとを批判的に見たり反対意見の立場も考えたりする力を育ててもらいました。この経験が、自分にとって物事を考える土台になっています。

 

アメリカ留学中に触れたガーナ・ボナイリ村のぬくもり

ボナイリ村の女性たちとくつろぐ原ゆかりさん=本人提供
ボナイリ村の女性たちとくつろぐ原ゆかりさん=本人提供

――実際の職業では、まず外交官の道を選びました。これはどうしてですか。

東京外国語大学に入学しました。大学では専攻の勉強以上に模擬国連の活動に力を入れました。常に念頭にあったのは、フィリピンの少女です。小さな子どもがゴミ山で暮らさざるを得ない現実に対し、どんな立場で何をすれば課題を解決できるか、ずっと考えていました。ニューヨークで開かれた国際大会にも参加し、国連、金融機関などの企業、JICA、大使館など、いろんな立場の方から話を伺いました。

でも、そんな中で感じるようになったことは、同じ組織のなかでミッションを共有しているはずの人たちが、実は現場側の人と本部側の人とで意見がかみ合っておらず、共感しあえていない現実でした。その溝を埋める役回りの大切さに気づき、いろんな立場で経験を積み上げたいと考えました。

だから、まだぼんやりとですが、学生時代に選んだ最初の仕事が職業選択のゴールとは考えていませんでした。外務省は日本にとって国際関係を担う「本部」にあたると考え、時間に融通の利く学生のうちに国家公務員のI種試験に挑戦しようと決めました。

 

――アメリカの大学院に留学しているときにガーナと出会ったのですね。

外務省の最初の2年間は、国連関係の政策を担う部署でした。3年目にコロンビア大学の大学院に留学する機会をいただきました。パブリックヘルス(公衆衛生学)の専攻で、半年間のアメリカ以外でのインターンが修了の必須条件になっているカリキュラムでした。ガーナにあるNGOやユニセフで研修させてもらうことになり、そのNGOが私を派遣してくれたのがボナイリ村でした。

初めて村を訪れたのは2012年6月です。首都アクラから飛行機に乗って1時間、空港から車で45分ほどかかる人口2000人ほどの集落です。トウモロコシや麦、トマトなどが豊富にとれ、ほとんどの人が農業に従事しています。農作業が落ち着いている時期には村の外に出稼ぎに出たりシアバターを作って販売したりして現金を得ていました。

インターンでは村の人たちの保健・衛生上の課題を調査するためにヒアリングをするのがミッションでした。現地の暮らしのなかからソーシャルビジネスにつながる取り組みを模索することも目的でした。

日々の暮らしのなかでは私は全くの役立たずで、ただ世話になる一方でした。薪(まき)で火をおこせないし、重さ10キロの水を頭の上に載せて運ぶこともできない。せめて生活費を支払わせてくれとお願いしたら、お前はもう家族だと言って受け取ってくれない。目の前にいる、こんな気持ちの温かい人たちに何か恩返しができないかなと感じたことが、村の人たちと一緒にマイドリームを立ち上げようと思ったきっかけでした。

 

――マイドリームでは何を手がけたのですか。

マイドリームの活動内容のイメージ=原さん提供
マイドリームの活動内容のイメージ=原さん提供

まず村のみんなと話し合い、当時、彼らが最も必要としていた幼稚園をつくりました。このときは日本やアメリカの友人、知人たちに寄付をお願いしました。大人が幼い子どもたちの面倒を見ていると農作業や家事がはかどらなかったという課題を解決できるうえ、小さな子どもが年間を通して安心して通い学べる場づくりができるベネフィットがありました。

ただ、寄付頼みでは持続可能性は担保できないし、私がいなくなったら支援者との接点もなくなって続けることができない。村の人からも疑問の声が上がり、モノづくりをして付加価値を生み出し、それをバリューチェーンにのせて収益につなげる仕組みをみんなで考えていこうと決めました。

ボナイリ村の子どもたちと触れ合う原ゆかりさん=本人提供(©Yoshiharu Sugino)
ボナイリ村の子どもたちと触れ合う原ゆかりさん=本人提供(©Yoshiharu Sugino)

マイドリーム創設が2012年。2022年までの10年間を目標に寄付から卒業する活動をやっていこうと考えました。村は農業が盛んと言っても、例えば、当時の稲作はタネをばらまいた後は神頼み。専門家の方々に相談して技術指導をしてもらったり、コットン製品をつくる工房を立ち上げたり。村発のビジネスを通じて得た収益で中学校とクリニックを設立することもできるようになりました。

小学校を卒業すると、自転車を買ってもらえるか寄宿舎の費用を出してもらえる経済力のある家庭の子どもしか中学校に通えなかったので、徒歩で通える中学校ができると、教育を続けて受けられるようになり英語を話せる子どもが増えてきました。クリニックには行政から派遣された知識や経験が豊富な看護師や助産師がいます。予防や治療ができるマラリアなどの病気で亡くなる子どもを減らすことにつながりました。

 

職場復帰後も履き続けた「二足のわらじ」

ボナイリ村を訪問した原ゆかりさん=本人提供
ボナイリ村を訪問した原ゆかりさん=本人提供

――インターンは半年だったのに、縁は続きますね。

外務省の人事課から在外勤務の希望を聞かれた際、迷わずガーナと答えました。かなえてもらえたので、マイドリームを続けることができました。ただ、マイドリームの活動は、あくまでボランティア。「本業」とは完全に切り離し、日本政府のお金は一切入れていません。大使館の業務にしてしまったら、内外から公私混同と思われてしまうと考えました。マイドリームから私がマージンを受け取ることもありません。

大使館員としてジャパンウィークを開催したり、現地に剣道教室を立ち上げたりする広報文化担当としての本業をしっかりこなし、シエラレオネやリベリアなど日本の大使館がない近隣国への出張業務も担当でした。週末を使い、月に1回くらい村に戻るという「二足のわらじ」を履き、マイドリームの運営は村の人に委ねていくことを意識しました。

本業をおろそかにしたり、おろそかだと同僚に思わせてしまったら、その段階でマイドリームは続けられないと自分に言い聞かせてきました。私自身の生活も本業で支えられています。幸い、どの仕事も真剣に打ち込めることばかりで、両立することができました。

 

――なぜ外務省を辞めたのでしょうか。外交官としてキャリアを切り開くことだって可能だったはずです。

もともと官僚志向が強かったわけではなく、キャリア志向はありません。それよりは、ミッションを意識した生き方をしたいという思いを強めていました。課題を探り、政策やプロジェクトを立案する経験は外務省や模擬国連で積み上げてくることができましたが、マイドリームを続けていると、人の手触り感のする実業、付加価値のある「イイもの」をつくって売って収益につなげることへの興味が膨らみました。けれども、当時の自分には収益化へのノウハウが不足しているという問題意識をもつようになりました。

マイドリームを当初から応援してくれていた1人が三井物産ガーナ支店の方でした。大使館勤務の任期が近づき、日本に戻らなくてはいけない時期が迫る中で、声をかけていただいたのがご縁でした。ボナイリ村の仲間に10年間頑張ろうと話してきたのに、日本に帰国したらマイドリームは続けられない。アフリカ大陸には残っていたいなと考え、転職を決断しました。民間企業、それも三井物産でなら、課題に感じていたビジネスの経験も積みあげていけると思いました。

外務省を退職したのが2015年8月。12月に三井物産に入社し、南アフリカのヨハネスブルグ勤務になりました。エジプトなど北アフリカを除くサブサハラ地域の新規事業開拓が仕事です。通信インフラをアフリカ各地に整備したり、小規模農家をバリューチェーンに取り込む事業への投資案件にかかわったりする仕事に携わりました。特に、農業関連の事業への出資は当時、三井物産のアフリカ事業でも特に力を入れていたビジネスでした。

マイドリームの拠点はガーナなので、3-4か月に1回、週末を利用して行くのがやっとでした。ヨハネスブルグから飛行機で6時間かかる距離なので頻繁には行けませんでしたが、それが良かったと思います。頻繁に村を訪れていると役割や権限が現場に移管できなくなってしまう。もう一人の共同代表を中心に、村のチームの力でしっかり運営できる組織にしていくことができました。

 

挫折を救った「ご縁」と挑戦し続けてきた「経験値」

――アフリカビジネスの最前線に立ちながら、三井物産を辞め、アフリカ企業を経て自分で起業を決断しましたね。これはなぜですか。

2017年末に三井物産を辞め、翌年のはじめからドバイに拠点があるアフリカの企業に転職しました。アフリカはフィンテックがとても進んでいるのですが、モバイルマネーのサービスを展開する新規事業、それに太陽光発電を手がける新規事業を任せるから挑戦してみないかという話をいただきました。その企業の理念に共感でき、新規事業を実現させたいと思ったことが転職の理由でした。

ところが、想定外の事態が起こったため、2018年4月に道半ばで会社を離れる決断をしました。

いきなり職を失い、月々の収入を絶たれる初めての経験でした。収入がないなか生計を立てていく覚悟なんてできていません。帰国したのですが、とても落ち込み、しばらく何もできませんでした。母、妹と1週間のヨーロッパ旅行に出かけたり、その後もひと月半ほど、1人でアフリカ各地を旅して回ったり。この年の10月、東京で一人暮らしを始め、7年ぶりに日本に腰を据えることにしました。

実は、三井物産を辞めた後、将来に備えるつもりで会社設立の準備だけはしていました。マイドリームの製品を日本に輸出したいなと考え、税金の手続きや会計処理のことを考えても、会社をもっていたほうが便利で、そのためのスカイヤーでした。

とはいえ、外務省や三井物産で働いていた時のような安定収入が見込めていたわけではありません。先行きの不安から日々の交通費すら惜しむような思いになり、実際に、数駅の距離なら歩いて移動したこともあります。生計を成り立たせるために三足目のわらじを履こうかとも考え、実際にリクルーターにも会いました。

 

――転機が訪れたわけですね。

そんなときに、これまでのアフリカでの経験が評価され、コンサルタントを依頼してくれるご縁に恵まれました。アフリカビジネスに可能性を感じながら手をこまねいているクライアントにブリーフィングをしたり、そのクライアントの代表として現地に赴き、連携を模索したり商談したりする仕事です。いまもスカイヤーの収益の柱になっているのはコンサル事業です。

最近は持続可能性やSDGsをしっかり考えたサポートをしてほしいという依頼も増え、外務省や模擬国連、マイドリームの活動を通じて培ってきた「イイこと」を考える経験も生きています。もちろん収益化は大切なのですが、自分たちが生み出した価値を社会に還元することに意義を見い出そうと考える企業が増えているように思います。そうした企業を、これからもサポートしていきたいですね。

スカイヤーが扱うアフリカ発の商品=東京都新宿区
スカイヤーが扱うアフリカ発の商品=東京都新宿区

――たくさんの経験を重ねてきましたが、まだ34歳です。同世代が定年退職を迎えるまで30年もありますが、次の展開をどう考えていますか。

マイドリームを立ち上げて、来年でちょうど10年になります。まずは10年間をしっかり完走することが目標だったので、その後の5年、10年と聞かれても、いまは答えることができません。

ただ、この10年間をしっかり振り返り、経験してきたこと、教訓になったことを棚卸してボナイリ村からのメッセージとして発信していける機会を大切にしたい。コロナ禍で昨年3月からボナイリ村には行けていませんが、この間も村ではプロジェクトが進み、シアバター工房や縫製工房の修繕も実現しました。もう私自身が必要とされている実感はありません。村には良いモノづくりがしっかり根付き、自分たちで生み出した収益から教育や保健衛生などの分野に投資することを通じて社会経済的な価値を生み出せる人材を増やす。その繰り返しが次の世代の暮らしや自立した社会につながる、ということを村の人たちがすでに実践してくれています。私自身、持続可能な開発って、そういうことなんだなと、いま彼らが積み重ねてきたことを振り返りながら総括しているところです。

 

原さんの人生の満足度は…?

いろんな経験をしましたが、すべて99%とさせてください。これまでを振り返ると、大変だった時期を含めても「後悔」しているような時期はなく、その意味ではずっと100%だったと言えるかもしれません。けれども、それぞれの時期が、本当に100%かどうか、10年後や20年後も同じように言えるかどうかは、これからの自分の生き方次第だとも感じています。だから、100%とは言いたくないので、99%とさせてください。

――アフリカ企業に転じ、すぐに退社せざるをえなくなったときはどうですか。

この経験は、見方によっては低い点数になるとも考えられますが、当時、自分でできることはやり尽したと今でも思っていますし、この挫折や失敗から得た価値は計り知れないほど大きいものだと思っています。事業をゼロから考えた経験、想定外の困難に直面したときに経営層は何を考えるかを間近に経験できたことは今のコンサル事業につながっています。その意味ではよかったなと振り返ることもできるキャリアシフトなので、やはり99%です。

――あと1ポイントで100%です。どうすれば自己評価で満点になるのでしょうか。

これまで取り組んできた事業も、そして自分の生き方も、綿密に計画を立てて石橋を叩いて歩むというスタイルではなく、ある程度の計画と準備が整えば、とりあえずやってみるというアジャイルな姿勢で進めてきました。これはアフリカの仲間たちから教わった生き方です。過去を振り返ってどう感じるかというのは、これからだって変わっていくはず。ほかに選択もあったかもしれませんが、その都度悩み、考えて選んだ道で、どれも後悔はありません。どうなれば100%かという考えではなく、より良い形を常に目指していたいなと思います。

勤務先だけは何度か変えましたが、目指してきたことは変わっていないので、ジョブそのものは貫いてこられたのかなと感じています。

振り返れば、中学生のときにTIME誌を読むことから始まったように思います。挑戦する前は無理だと思っても、本当に無理なのかどうかは挑戦してみないとわからない。だからベストだと思うことは挑戦してみようよと若い人には伝えたいですね。

キャリア

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